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2023.04.27
2023.02.01
現地リポート
2022.12.20
調査部 研究員 清水信子
ネパールは中国とインドという二大国に挟まれた国です。北海道の約1.8倍の土地は、エベレストをはじめとするヒマラヤから南部のタライ平原までダイナミックな変化にとんでいます。また、ヒンドゥー教や仏教の寺院、仏陀がうまれたルンビニ、野生動物公園等、見どころがたくさんあります。そんなネパールに人材育成奨学計画準備調査(https://www.jica.go.jp/activities/schemes/grant_aid/summary/JDS.html)のために訪れました。
今回はネパール料理について紹介させていただきます。
(写真1)
まずは、ネパールを代表する定食のダルバート(दालभात)です(写真1)。ネパール語でダルとは豆のスープを、バートはコメを意味します。南アジアの料理は辛い印象を持たれますが、この豆のスープは辛くないため日本人にもとても食べやすい料理です。ただし、副菜としてついている、漬物(アチャール)は辛いです。写真のダルバートのように辛さを和らげるためにヨーグルトがついているお店もあります。
次に、ネパール版餃子のモモをご紹介します。見た目はまさに餃子ですが、中身に香辛料が入っているので私達の知る餃子とは一味違います。蒸したSteam momo(写真2)、揚げたFried momo(写真3)、焼いたKothey momo(いわゆる焼き餃子)、スープの中に入ったJhol momo(写真4)、完全に餃子の上部の皮を閉じずに蒸し、開いている箇所からソースをかけて楽しむOpenmomo(写真5)など沢山の種類があります。驚くことにデザートモモというスイーツまであります。日本でモモを提供しているインド、ネパール料理店もありますので、是非一度お試しあれ!
(写真2)
(写真3)
(写真4)
(写真4)
参照:
Bota Mo:Mo. (2022a) Probably the best veg mo:mo — at Botaबोता Food & Restaurant. Available at: https://www.facebook.com/botarestaurant/photos/2903177649977840
Bota Mo:Mo. (2022b) PERFECT FOR THE WEATHER! WE ARE OPEN AT KAMALPOKHARI— at Botaबोता Food & Restaurant. Available at: https://www.facebook.com/botarestaurant/photos/a.1681932905435660/2900700806892191/
Bota Mo:Mo. (2022c) — at Botaबोता Food & Restaurant. Available at: https://www.facebook.com/botarestaurant/photos/2902333706728901
Bota Mo:Mo. (2022d) — at Botaबोता Food & Restaurant. Available at: https://www.facebook.com/botarestaurant/photos/2897971040498501
2022.06.02
調査部 研究員
“She sleeps like a cocoyam”「彼女はヤムイモのように眠っている。」
ゆくりなくも、ガーナへの道中かたわらにあった小説「Ghana must go」で遭遇したこの印象的な喩-ヤムイモのような眠り-から、本稿を始めたい。
ガーナマストゴー(ガーナ人は出ていかねばならない)、この80年代に起きたナイジェリアにおけるガーナ労働移民排斥命を冠する小説は、21世紀にも清算されずに残った孫世代のディアスポラの新たなビオスを、後述する作者自身の出自・経験を通じ提出している。同作は、父に捨てられ世界中へ離散した家族が、その父の死とともにガーナに集い、喪の作業を通じて再生を遂げる物語を縦糸に、Toni Morrison あるいはSalman Rushdieといった先達への周到な目配せを細部に広げながら、新たなポストコロニアル文学として見事なエクリチュールを紡いでいる。読む者は、その冒頭、一家の領袖として罪を負った父が、美しい庭で悔恨のうちに静かに息を引き取る傍ら、何も知らずにベッドで眠っている二番目の妻-まさにヤムイモのような眠り-との対比の、息を飲むような描写に出会うこととなる。
ガーナとナイジェリアのオリジンを持ち、イギリスで育ち、ローマやアメリカに渡るという、ディアスポラの当事者たる著者、Taiye Selasiは、同作の上梓以前に、「Afropolitan」という造語を駆使し、新たなノマディズムとして、ネーション=ステートの夥しい抑圧の記憶から離れた、新たなる「Region」としての繋がりを唱えたものだが、それはフランツ・ファノンの生きた時代の抑圧への抵抗のための「Pan₋African」から、新しい世代の「Afropolitan」への移行を目指すものとして、今作にも色濃く反映されている。
私は目指すガーナにまつわるこの小説に、免疫自体のシステムが自他の境界を無理やりに策定させ、誰でも潜在的な敵(ホスティル)としてしまう状況を露呈させている中(それはあらゆる境界による分断とパラレルである)、Foreignerとして移動することの意味を見出させるものとして、大きな励みとなった。そして同作で繰り返し描かれるまばゆいガーナの陽光そのものを通し、新しい視点を得ることが大きな目的となったのである。
紛争地の上空を避けながら、巨大な金属の鳥は長い迂回の果て、深夜アクラへ舞い降りたが、実際にガーナの強い陽光を初めて認識したのは、まさにヤムイモのような眠りから覚めた後のことだった。
滞在先の”コロニアル”様式のホテルでは、いたるところに極楽鳥花の切り花が、無造作に、しかし艶めかしく目を惹きつけるように生けられており、強い陽光そのものの表徴であるような花に、ふと、晩年にアルジェリアからガーナへ初の大使として派遣されたファノンの言葉-「私は真に地上における太陽の一滴である。」(「黒い皮膚、白い仮面」)-を思い浮かべた。
その後、強い陽光のなか、さまざまな国籍を持つ自動車が、めいめいのやり方で土埃を巻き上げる道で、往来する人々、路上の商人たち、舗装作業に従事する青いツナギの受刑者、陽にあぶられあられもなく眠る人、唐突な笑い、そして「Ghana must go bag」(注)を両手いっぱいに持ちどこかへ向かう人を見るにつけ、それら「太陽のひとしずく」たち、ファノンの言う「太陽の湧出物をすべて身に引き受ける」彼らの輝かしさと、Foreignerへの探るような曖昧でやさしいまなざしに触れ、敵(ホスティル)と客(ホスピス)とは同じ語源を持つことに改めて気づくのだった。
帰路にて筆者は、晴れて機内濃厚接触者となり、つまり社会的免疫システム上のホスティルとなり、新宿のホテルで8日間の滞在を行う“隔離客”となるが、ふとテレビを付けると賈 樟柯「長江哀歌」が映し出されていた。
ダムに沈んだ町を巡り、別れた妻と娘を探すというその映像作品は、とりもなおさず巨大な一国内のディアスポラ、地に生きる「太陽のひとしずく」たちの彷徨を描いていた。
今回の道行きでの思考と重なる、その不思議な偶然の符号も最後に書き添えておかねばならない。
(注)Ghana must go bag 誰しも一度は目にしたことのある青赤チェックのビニール製バッグは、「Ghana must go」が発令され、その短い通告の際、ガーナ労働者たちが慌てて荷物を詰めなければいけなかったことから、この愛称で呼ばれている。
2021.12.28
調査部 研究員 生真跡 アルバーリ
生まれてから20歳までシリアで育った私だが、2021年初めて、故郷の隣国であるトルコに行った。目的は観光ではなく家族との再会だったが、せっかくイスタンブール(トルコの首都)に来たのでイスラム建築やオスマン建築を見ることができるモスクに行ってみた。 写真は1551-1557年の間に建てられた、オスマン建築の最高作のひとつと言われるスレイマニエ・モスク(Süleymaniye Camii)だ。
スレイマニエ・モスクの外観
建物の内側も建築技術の美しさを感じる。モスクの中にいると、広い面積のせいか、天井の高さのせいか、モスクは神様の家だと言われているせいか、上手に言葉で説明できないが、自分自身がとても小さく感じ、毎回不思議な感覚を憶える。
スレイマニエ・モスクの内観
イスタンブールにいるなら絶対に見に行かなければならないもう一つのモスクは、アヤソフィアモスク(Ayasofya Camii)だ(下写真)。西暦537年12月27日に開業され、1985年にUNESCO世界遺産として登録 された。アヤソフィアモスクは東ローマ帝国時代に首都コンスタンティノープルで建てられた、現地のキリスト教信者のための正教会だった。現在このモスクは現地トルコ人より外国人の観光客で溢れかえっている。
アヤソフィアモスク
アヤソフィアモスク内のシャンデリアを見上げる姪
話が変わるが、2011年に勃発したシリア戦争によってトルコは沢山のシリア難民を受け入れ(現在約360万人)、イスタンブール市内どこを歩いていてもよくシリア方言が聞こえる。シリア難民と言ってもトルコ政府から財政支援がなく、職を探し働いたり、自分の店や会社を立ち上げたりしている人がほとんどである。
イスタンブールのファティ(Fatih)地区ではシリアの物品を扱っている店やレストランばかりのマーケットがあると聞いたので行ってみたら、トルコにいることを忘れるくらいアラビア語(シリア方言)ばかり聞こえて、どの店に入ってもアラビア語が通じた。
ファティ地区
2013年にシリアを離れ日本の大学に入学し、その後就職してずっと日本に住んできたが、こんなに沢山の人が母国であるシリアを逃れトルコへ来てほとんどゼロの状態から新しい人生を再開していることに、悲しい気持ちも嬉しい気持ちもあった。
しかし!ファティマーケットで、大好きなシリア・ダマスカスの郷土料理「アッシェ(Asheh)」を食べることができて最高の一日になった。アッシェは作り方が難しく、提供できるレストランも多くない。子羊がメインで使われている料理だが、頭、脳、舌、腹、大腸、レバー、肉、足(ひづめ)まで入っている!アッシェは重くて、油も沢山入っていて、健康的な和食に慣れた私は、一食を食べきれなかったが、とても幸せだった。
シリアの首都ダマスカスの郷土料理「アッシェ」
2020.05.17
調査部 研究員 平野 太一
初めてメキシコシティ空港から降り立つと、南国のような強い日差しを感じた。しかし、湿度は低く、一歩日陰に入ると涼しく快適に過ごすことができる。メキシコ合衆国はアメリカ中西部の南に位置し、中南米と呼ばれる地域にある。元々はアステカ文明で栄えた後、大航海時代にスペインに占領され19世紀に独立を果たすまでスペインの占領下にあった。日本では罰ゲームでなじみのある「テキーラ」の原産国である。その首都メキシコシティは標高2200mに位置し、私が渡航した2月下旬は最高気温23~24℃、最低気温は5~8℃と高原気候となっている。そのため現地では、コートを着ている人もいれば半袖やノースリーブで過ごしている人もいる。同じ店内で半袖の客とコートにマフラー姿の客が、隣り合わせで座っているなんて光景もちらほら見かけた。こんな光景からも気温の変化が大きいことがうかがえる。
多くの人がメキシコと聞くと「マフィア」や「危険」なイメージを抱いていると思う。私も渡航前は現地の治安のことを重点的に調べたりしていた。しかし、現地で過ごしていると現地の人からはそのような気配を感じることはなく、みんな「Hola!」と笑顔で挨拶をしてくれる。現地の人でも危険で近寄らない地域もあるそうだ。しかしそのような地域を除けば、みんな普通に買い物や食事、公園で会話、バーでサッカー観戦を楽しんでいる。私自身も海外での基本的な注意事項を意識していれば、危険な雰囲気は感じず楽しく過ごすことができた。
メキシコシティは人口約3000万人をかかえる大都市であり移動手段はもっぱら車である。そのため交通渋滞が日常的に発生している。大した距離の移動ではないのに時間を要してしまうこともしばしば起きる。そのため、会議の時間に遅刻なんてことは、度々発生するらしい。日本では仕事の開始時間に遅れるのはいかがなものかと感じると思うが、メキシコではある程度許容されているようである。日本にいると、常に時間に支配されているように感じるが、メキシコにいる間は気候や人の温かさからか、少し時間から解き放たれた気分になる。
もう一つ、外国へ渡航した際に楽しみなもののひとつが食事であろう。人間は活動するためには、食事をとらなければならない。現地での食事は命にかかわることである。「メキシコ人は軽く夕食を取る。」現地へ行く前にそんな言葉を耳にした。日本とは異なる食生活なのかと想像していた。しかし、よくよく聞いてみるとどうやら様子が違うようである。メキシコ人は1日5食食べるというのだ。「朝食」・「昼前の間食」・「昼食」・「おやつ」・「夕食」・「夜食」。なるほど、「夕食」は軽くなるわけだ。
そんなメキシコ料理の代表といえばやはり「taco(s):タコ(ス)」であろう。日本でも食することのできるこの料理、やはり本場の「tacos」は非常においしい。日本で食することのできる「タコス」とはまるで違うのである。自分の好みのサルサを巻き、自分好みの様々な味を作ることができる。日本でいう「手巻き寿司」のような感覚だ。中に挟む具材も、肉の各種からエビなどを巻いたものまであり様々な味が楽しめる。メキシコのソウルフードというわけだ。