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現地リポート

2022.06.02
調査部 研究員 “She sleeps like a cocoyam”「彼女はヤムイモのように眠っている。」 ゆくりなくも、ガーナへの道中かたわらにあった小説「Ghana must go」で遭遇したこの印象的な喩-ヤムイモのような眠り-から、本稿を始めたい。 ガーナマストゴー(ガーナ人は出ていかねばならない)、この80年代に起きたナイジェリアにおけるガーナ労働移民排斥命を冠する小説は、21世紀にも清算されずに残った孫世代のディアスポラの新たなビオスを、後述する作者自身の出自・経験を通じ提出している。同作は、父に捨てられ世界中へ離散した家族が、その父の死とともにガーナに集い、喪の作業を通じて再生を遂げる物語を縦糸に、Toni Morrison あるいはSalman Rushdieといった先達への周到な目配せを細部に広げながら、新たなポストコロニアル文学として見事なエクリチュールを紡いでいる。読む者は、その冒頭、一家の領袖として罪を負った父が、美しい庭で悔恨のうちに静かに息を引き取る傍ら、何も知らずにベッドで眠っている二番目の妻-まさにヤムイモのような眠り-との対比の、息を飲むような描写に出会うこととなる。 ガーナとナイジェリアのオリジンを持ち、イギリスで育ち、ローマやアメリカに渡るという、ディアスポラの当事者たる著者、Taiye Selasiは、同作の上梓以前に、「Afropolitan」という造語を駆使し、新たなノマディズムとして、ネーション=ステートの夥しい抑圧の記憶から離れた、新たなる「Region」としての繋がりを唱えたものだが、それはフランツ・ファノンの生きた時代の抑圧への抵抗のための「Pan₋African」から、新しい世代の「Afropolitan」への移行を目指すものとして、今作にも色濃く反映されている。 私は目指すガーナにまつわるこの小説に、免疫自体のシステムが自他の境界を無理やりに策定させ、誰でも潜在的な敵(ホスティル)としてしまう状況を露呈させている中(それはあらゆる境界による分断とパラレルである)、Foreignerとして移動することの意味を見出させるものとして、大きな励みとなった。そして同作で繰り返し描かれるまばゆいガーナの陽光そのものを通し、新しい視点を得ることが大きな目的となったのである。 紛争地の上空を避けながら、巨大な金属の鳥は長い迂回の果て、深夜アクラへ舞い降りたが、実際にガーナの強い陽光を初めて認識したのは、まさにヤムイモのような眠りから覚めた後のことだった。 滞在先の”コロニアル”様式のホテルでは、いたるところに極楽鳥花の切り花が、無造作に、しかし艶めかしく目を惹きつけるように生けられており、強い陽光そのものの表徴であるような花に、ふと、晩年にアルジェリアからガーナへ初の大使として派遣されたファノンの言葉-「私は真に地上における太陽の一滴である。」(「黒い皮膚、白い仮面」)-を思い浮かべた。 その後、強い陽光のなか、さまざまな国籍を持つ自動車が、めいめいのやり方で土埃を巻き上げる道で、往来する人々、路上の商人たち、舗装作業に従事する青いツナギの受刑者、陽にあぶられあられもなく眠る人、唐突な笑い、そして「Ghana must go bag」(注)を両手いっぱいに持ちどこかへ向かう人を見るにつけ、それら「太陽のひとしずく」たち、ファノンの言う「太陽の湧出物をすべて身に引き受ける」彼らの輝かしさと、Foreignerへの探るような曖昧でやさしいまなざしに触れ、敵(ホスティル)と客(ホスピス)とは同じ語源を持つことに改めて気づくのだった。 帰路にて筆者は、晴れて機内濃厚接触者となり、つまり社会的免疫システム上のホスティルとなり、新宿のホテルで8日間の滞在を行う“隔離客”となるが、ふとテレビを付けると賈 樟柯「長江哀歌」が映し出されていた。 ダムに沈んだ町を巡り、別れた妻と娘を探すというその映像作品は、とりもなおさず巨大な一国内のディアスポラ、地に生きる「太陽のひとしずく」たちの彷徨を描いていた。 今回の道行きでの思考と重なる、その不思議な偶然の符号も最後に書き添えておかねばならない。 (注)Ghana must go bag 誰しも一度は目にしたことのある青赤チェックのビニール製バッグは、「Ghana must go」が発令され、その短い通告の際、ガーナ労働者たちが慌てて荷物を詰めなければいけなかったことから、この愛称で呼ばれている。
2021.12.28
調査部 研究員 生真跡 アルバーリ 生まれてから20歳までシリアで育った私だが、2021年初めて、故郷の隣国であるトルコに行った。目的は観光ではなく家族との再会だったが、せっかくイスタンブール(トルコの首都)に来たのでイスラム建築やオスマン建築を見ることができるモスクに行ってみた。 写真は1551-1557年の間に建てられた、オスマン建築の最高作のひとつと言われるスレイマニエ・モスク(Süleymaniye Camii)だ。 スレイマニエ・モスクの外観 建物の内側も建築技術の美しさを感じる。モスクの中にいると、広い面積のせいか、天井の高さのせいか、モスクは神様の家だと言われているせいか、上手に言葉で説明できないが、自分自身がとても小さく感じ、毎回不思議な感覚を憶える。 スレイマニエ・モスクの内観 イスタンブールにいるなら絶対に見に行かなければならないもう一つのモスクは、アヤソフィアモスク(Ayasofya Camii)だ(下写真)。西暦537年12月27日に開業され、1985年にUNESCO世界遺産として登録 された。アヤソフィアモスクは東ローマ帝国時代に首都コンスタンティノープルで建てられた、現地のキリスト教信者のための正教会だった。現在このモスクは現地トルコ人より外国人の観光客で溢れかえっている。 アヤソフィアモスク アヤソフィアモスク内のシャンデリアを見上げる姪 話が変わるが、2011年に勃発したシリア戦争によってトルコは沢山のシリア難民を受け入れ(現在約360万人)、イスタンブール市内どこを歩いていてもよくシリア方言が聞こえる。シリア難民と言ってもトルコ政府から財政支援がなく、職を探し働いたり、自分の店や会社を立ち上げたりしている人がほとんどである。 イスタンブールのファティ(Fatih)地区ではシリアの物品を扱っている店やレストランばかりのマーケットがあると聞いたので行ってみたら、トルコにいることを忘れるくらいアラビア語(シリア方言)ばかり聞こえて、どの店に入ってもアラビア語が通じた。 ファティ地区 2013年にシリアを離れ日本の大学に入学し、その後就職してずっと日本に住んできたが、こんなに沢山の人が母国であるシリアを逃れトルコへ来てほとんどゼロの状態から新しい人生を再開していることに、悲しい気持ちも嬉しい気持ちもあった。 しかし!ファティマーケットで、大好きなシリア・ダマスカスの郷土料理「アッシェ(Asheh)」を食べることができて最高の一日になった。アッシェは作り方が難しく、提供できるレストランも多くない。子羊がメインで使われている料理だが、頭、脳、舌、腹、大腸、レバー、肉、足(ひづめ)まで入っている!アッシェは重くて、油も沢山入っていて、健康的な和食に慣れた私は、一食を食べきれなかったが、とても幸せだった。 シリアの首都ダマスカスの郷土料理「アッシェ」
2020.05.17
調査部 研究員 平野 太一 初めてメキシコシティ空港から降り立つと、南国のような強い日差しを感じた。しかし、湿度は低く、一歩日陰に入ると涼しく快適に過ごすことができる。メキシコ合衆国はアメリカ中西部の南に位置し、中南米と呼ばれる地域にある。元々はアステカ文明で栄えた後、大航海時代にスペインに占領され19世紀に独立を果たすまでスペインの占領下にあった。日本では罰ゲームでなじみのある「テキーラ」の原産国である。その首都メキシコシティは標高2200mに位置し、私が渡航した2月下旬は最高気温23~24℃、最低気温は5~8℃と高原気候となっている。そのため現地では、コートを着ている人もいれば半袖やノースリーブで過ごしている人もいる。同じ店内で半袖の客とコートにマフラー姿の客が、隣り合わせで座っているなんて光景もちらほら見かけた。こんな光景からも気温の変化が大きいことがうかがえる。 多くの人がメキシコと聞くと「マフィア」や「危険」なイメージを抱いていると思う。私も渡航前は現地の治安のことを重点的に調べたりしていた。しかし、現地で過ごしていると現地の人からはそのような気配を感じることはなく、みんな「Hola!」と笑顔で挨拶をしてくれる。現地の人でも危険で近寄らない地域もあるそうだ。しかしそのような地域を除けば、みんな普通に買い物や食事、公園で会話、バーでサッカー観戦を楽しんでいる。私自身も海外での基本的な注意事項を意識していれば、危険な雰囲気は感じず楽しく過ごすことができた。 メキシコシティは人口約3000万人をかかえる大都市であり移動手段はもっぱら車である。そのため交通渋滞が日常的に発生している。大した距離の移動ではないのに時間を要してしまうこともしばしば起きる。そのため、会議の時間に遅刻なんてことは、度々発生するらしい。日本では仕事の開始時間に遅れるのはいかがなものかと感じると思うが、メキシコではある程度許容されているようである。日本にいると、常に時間に支配されているように感じるが、メキシコにいる間は気候や人の温かさからか、少し時間から解き放たれた気分になる。 もう一つ、外国へ渡航した際に楽しみなもののひとつが食事であろう。人間は活動するためには、食事をとらなければならない。現地での食事は命にかかわることである。「メキシコ人は軽く夕食を取る。」現地へ行く前にそんな言葉を耳にした。日本とは異なる食生活なのかと想像していた。しかし、よくよく聞いてみるとどうやら様子が違うようである。メキシコ人は1日5食食べるというのだ。「朝食」・「昼前の間食」・「昼食」・「おやつ」・「夕食」・「夜食」。なるほど、「夕食」は軽くなるわけだ。 そんなメキシコ料理の代表といえばやはり「taco(s):タコ(ス)」であろう。日本でも食することのできるこの料理、やはり本場の「tacos」は非常においしい。日本で食することのできる「タコス」とはまるで違うのである。自分の好みのサルサを巻き、自分好みの様々な味を作ることができる。日本でいう「手巻き寿司」のような感覚だ。中に挟む具材も、肉の各種からエビなどを巻いたものまであり様々な味が楽しめる。メキシコのソウルフードというわけだ。
2020.04.01
調査部 研究員 林 芽衣 こんにちは。ヨルダンで活動している林芽衣と申します。11年前にイタリアのファッション業界でキャリアを積んでいた時、ふと訪れた中東のヨルダンの美しさに魅力されました。天然の赤みがかったバラ色のグラデーションの洞窟だらけのペトラ遺跡や浮遊体験のできる死海とか、綺麗なピンク色の砂の景色の砂漠ワディラム等と、とにかく数多い見所に溢れているヨルダンです。 2008年9月に、ヨルダン南部のペトラ遺跡の側のベドイン村に移り住み、今までに全く見た事のないような貴重な経験ができました。80年ぐらい遅れたライフスタイルのベドイン民族は、何から何までとにかく面白かったです。タクシーの代わりにラクダに乗ったり、オートバイの代わりに馬やロバに乗ったり、ドアのハンドルの代わりにスプーンが刺さっていたり、車のギアの代わりにナイフが刺さっていたり。。。裸足で鼻水垂らした子供達が道端で動物と主に走り回っていたりと、本当に飽きない毎日でした。 そして、ベドイン特有のカラフルな刺繍やデザインに囲まれ、いつ かこういったデザインを使って作品を作りたいと考えていました。 そんな中、2011年にシリア紛争が勃発し、ヨルダンにも大勢のシリアの方々が避難してきました。私も内戦から逃れてきたシリア難民や、貧困に苦しむヨルダン人のために何かできないかと考え、地元のNGOなどの難民支援活動に参加し、色々な事業に取り組んできました。 内戦で家や家族を無くし荷物も持たずに逃げてきたシリアの人々は、無事に辿り着いたとしてもヨルダンで労働許可がなかなか取得できないため、収入が無く、貧困に苦しんでいます。それが、早期婚やチャイルドレーバーといった問題にも直結しています。シリア難民は、差別やいじめの対象になることが多く、また、将来への不安から、精神的にも辛い日々を過ごしています。私はこのような状況の中で、生きる目的や希望を無くしてしまった人々を、経済的そして心理的にサポートするプロジェクトを立ち上げました。 “Tribalogy(トライバロジー)”はベドインをはじめ、中東の部族文化の伝統的な洋裁技術や刺繍を基に、モダンなテイストを入れ、新しい作品に創造し、販売しています。商品はシリア難民と貧困層のヨルダン人女性が一つ一つ手作りで完成させ、それを売ることで収入の創出に繋がっています。2013年にこのプロジェクトを始めて以来、参加した女性達が笑顔を取り戻し、元気になっていく様子を沢山見てきました。自分の手で制作することに集中していると、辛い思い出やネガティブな考えが不思議と遠ざかっていきます。良い商品を作り上げ、それが売れた時の達成感、習得したスキルは今後の人生の糧になるという自信、また、たとえ僅かでも稼いだお金で家族に美味しい食事を食べさせたり、子供に洋服や勉強道具を買ってあげたりと、母親としての幸せを実感することにより、失いかけていた人生の意味を再び見出すことができるのです。 女性たちが一生懸命作り上げた商品をどんどん販売することにより、より多く仕事の数を増やすことができます。仕事の量が増えれば増えるほど、もっと多くの女性たちに仕事を提供してあげることが可能となります。 世界中の人間の優しいお気持ちと温かいご支援のお陰でこのプロジェクトは成り立っております。これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。